甲冑とは、胴体を守る鎧と頭部を守る兜からなる防具のことで、古くは弥生時代から用いられたとされています。そして時代の流れと共に甲冑の形状は変わり、戦国時代では、武将の威厳や地位の高さを誇示する物としても活躍しました。名だたる戦国武将の中から、「武田信玄」、「森可成」、「明智光春」、「前田利家」、「立花宗茂」が愛用した甲冑と特徴について詳しくご紹介します。
中国の戦術・戦略論が書かれた兵法書「孫子」(そんし)を愛読していた武田信玄(たけだしんげん)。その言葉「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(はやきこと風の如く、しずかなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し:通称・風林火山)を軍旗に記していたことでも有名です。
力だけではなく理論で戦い「甲斐の虎」と言う異名をも持つ戦国武将。そんな武田信玄の世間一般のイメージと言えば「真っ赤な鎧」と「白い毛の付いた兜」です。このイメージは、富士山本宮浅間大社にある「紅糸縅最上胴丸」(べにいとおどしもがみどうまる)にあります。武田信玄の後継者「武田勝頼」(たけだかつより)が奉納し、「毛引縅」(けびきおどし:隙間なく糸で綴り合わせた物)が施された高級品。「紅糸」と名付けられていることからも、燃えるような鮮やかな紅色だったことが想像されます。
また、白い毛の付いた兜とは「下諏訪町立諏訪湖博物館」に所蔵される「諏訪法性兜」(すわほっしょうのかぶと)のこと。「前立」(まえだて:兜に付ける装飾物。前に付ける物を前立、横に付ける物を「脇立」その総称を「立物」と言う)は、黄金色に輝く獅噛(しかみ)と、頭から肩にかけて「白熊」(はぐま:チベット地方に生息するウシ科の「ヤク」と言う動物)の毛で覆われているのが特徴です。武田信玄は戦のたびに「諏訪大社」からこの兜を拝借して出陣していたと伝えられています。
しかし実際には、紅糸縅最上胴丸と諏訪法性兜がセットになった物は存在しません。諏訪法性兜は様々な歴史的観点から、実際に武田信玄が身に付けたことはなかったのではないかと言われています。それは江戸時代以降「川中島の戦い」が人形浄瑠璃や錦絵などで伝承されるようになり、武田信玄のイメージとして後世に伝わったと考えられるのです。
天下に知られた武田家。その理由のひとつは「赤備え」(あかぞなえ)と呼ばれる一軍があったからとも言われています。赤備えとは、甲冑や馬具、刀装などをすべて朱色に統一した部隊のこと。戦国時代、朱色は特別な色で、その武具を用いるのは特別なことでした。
武田家では、戦(いくさ)後の祝宴において、武功のあった者だけが朱色の器を使うことが許されていた逸話もあります。朱色の武具を身に付けることのできる武士は名誉であり、また戦場で目立つため絶対に卑怯な行動は許されず、実力以上の働きをしたとされているのです。武田家の赤備えを最初に率いたのは「飯富虎昌」(おぶとらまさ)で「飯富兵部少輔虎昌」(おぶひょうぶのしょうゆうとらまさ)隊と言われています。
しかし、飯富虎昌は逆心のため自害。身内の「山縣昌景」(やまがたまさかげ)が、一部の家臣と赤備えも引き継ぐのです。その後、武田家の赤備えは「山縣三郎兵衛尉昌景」(やまがたさぶろうびょうえのじょうまさかげ)隊が300騎、「内藤修理亮昌秀」(ないとうしゅりのすけまさひで)隊が250騎、「浅利右馬助信種」(あさりうまのすけのぶたね)隊が120騎、「小幡上総介信真」(おばたかずさのすけのぶざね)隊が500騎と、合計で1,170騎になりました。
彼らは武田信玄のもとで「川中島の戦い」など様々な活躍をしましたが、武田信玄が亡くなり武田勝頼が当主になると、「長篠の戦い」で織田家に敗れ、衰退の道を辿ります。
しかし、武田家が滅亡したあと、家臣の多くは武田軍団としての経歴を買われて「井伊家」や「徳川家」などへ仕え、「武田の赤備え」達は新たな道を歩んでいくこととなるのです。
信仰心の厚かった武田信玄は、寺や神社に強硬な策を採ることはせず、権利を認めると同時に義務を負わせる寺社政策を進めていました。そして、1559年(永禄2年)に「晴信」から「信玄」と号し出家。ちょうど、川中島の戦いの3戦目と4戦目の間でした。
冒頭に書いた諏訪法性兜のような派手な武将のイメージが強い武田信玄ですが「寒川神社」(神奈川県)に奉納された兜を観ると、その印象は少し違うものになるかもしれません。「六十二間筋兜」(ろくじゅうにけんすじかぶと)は、1569年(永禄12年)10月、武田信玄が小田原城の「北条氏康」(ほうじょううじやす)・「北条氏政」(ほうじょううじまさ)父子を討つために戦勝祈願に詣でた際に奉納。
兜の鉢は、その名の通り62枚の鉄板を合わせて形成された簡素な物で、鉢の内側には「天照皇大神宮 房宗」、その左右には「八幡大菩薩」と「春日大明神」とあり、さらに般若心教の全文が彫られています。このことからも武田信玄がいかに神仏に信心深かったのか、また戦いの場において神仏の加護を信じて采配を振るっていたことが分かるのです。
武田信玄は、1572年(元亀3年)の「三方ヶ原の戦い」の翌年、病死したとされています。そして後継者の武田勝頼へこんな言葉を遺すのです。
「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」と。「どれだけ強固な城があっても、人の心が離れれば世を治めることはできない。厚い情を持って人と接すれば城以上に守ってくれる。仇を感じさせるような振る舞いをすれば、裏切られることもある」と言う意味です。
神仏を信じ、人の絆を大切にした武田信玄。彼が後世まで語り継がれる理由は、そんな人間的な魅力に溢れているからかもしれません。
戦国時代、「織田信長」の家臣として父子ともに活躍した武将、森可成(もりよしなり)。森可成が身に付けた甲冑は、「銀箔押大釘頭立付鉄錆地日根野頭形兜」(ぎんぱくおしおおくぎずたてつきかなさびじひねのずなりかぶと)、「黒革包畦目綴二枚胴具足」(くろかわづつみうなめとじにまいどうぐそく)と伝わっており、太腿や膝などを守る佩楯(はいだて)には、森家の家紋「鶴丸紋」(つるまるもん)が入っています。
兜は「日根野頭形」(ひねのずなり)と言う種類の物。鉄砲の登場により実用性が求められるようになった戦国時代らしく、頭の骨格に沿った形「頭形」(ずなり)で実戦向きに作られており、眉が打ち出されているのが特徴のひとつです。頭上にまっすぐ伸びた兜の大きな立物は大釘で、高さは1m以上。立物が大釘の兜は他の武将も所有しており、大釘は当時の武将に人気のモチーフだったようです。
森可成は、槍の名手とうたわれていたため、「出る杭を打つ」すなわち「敵を討つ」ことを連想させる物として大釘を好んだとされています。
森家は、もともと美濃の「土岐氏」に仕えていました。しかし、織田信長の義父「斎藤道三」(さいとうどうさん)によって土岐氏が滅ぼされたのちに織田信長に仕えたのです。森可成は正室との間に6男3女を授かります。
その子こそが、「森長可」(もりながよし)や「森蘭丸」(もりらんまる)。森家は親子揃って織田信長に気に入られたのです。織田信長よりも年上の森可成は信頼が厚かったのか、織田信長の上洛後、尾張から京都へ向かう際にも通る要所として、近江の宇佐山城の守りを任されました。
しかし、宇佐山城は築城間もない1570年(元亀元年)9月に「浅井長政」(あさいながまさ)、「朝倉義景」(あさくらよしかげ)の連合軍により襲撃されることに。このとき、織田信長軍の主戦力は摂津方面の「野田城」、「福島城」の敵と戦っている最中でした。織田信長の窮地を悟った森可成は、交通の要衝を先に占領して道を封鎖、なんとか敵の進軍を妨害します。
しかし、石山本願寺の要請を受けた延暦寺の僧兵も加わって浅井・朝倉連合軍の勢いが増し、森可成はあえなく討ち死に。宇佐山城主であった織田信長の弟「織田信治」(おだのぶはる)も同じく討ち死にとなります。
のちに、浅井・朝倉連合軍は宇佐山城に攻め入りましたが、森可成の重臣「各務元正」(かがみもとまさ)達守備陣が城を死守。連合軍は宇佐山城は攻め落とすことができないまま、諦めて京都の方へ進軍したのです。
森可成の死後、二男の森長可が森家の家督を継ぎ、織田信長に仕えます。三男の森蘭丸は、「本能寺の変」で織田信長と共に討ち死にしますが、森長可は生き延びて、のちに「豊臣秀吉」の家臣としても活躍するのです。森長可は父と同じく槍が得意で、戦の先鋒を務めたこともあり「鬼武蔵」の異名も残されています。
しかし「小牧・長久手の戦い」で「池田恒興」(いけだつねおき)達と共に奮戦するも「井伊隊」の銃弾が頭にあたり討ち死にしました。
織田信長の窮地を救うため迷わずに動いた森可成と、勇敢に戦った息子の森長可。森可成の兜からまっすぐに伸びた大釘は、不思議と混迷と激動の時代でもまっすぐに行動した森親子の生き様を彷彿とさせるものがあります。
戦国武将「明智光秀」(あけちみつひで)には「お倫」(おりん)という娘がいました。一時は「荒木村重」(あらきむらしげ)の嫡男と夫婦になっていましたが、荒木村重が謀反を起こしたため離縁。そのあとお倫と夫婦になったのが、明智光秀の家臣・明智光春(あけちみつはる)、通称「左馬之助」(さまのすけ)です(秀満、満春など別名あり)。
また、兜の前面には「月」と「うさぎ耳形」の立物を、「兜の錣」の裾板と面頬から垂れた板物の裾板には、躍動感のある「龍」の金蒔絵があり、前面と背面ではその印象が異なっています。
このように左馬之助の甲冑は、全体的に遠くから見て目立つ武具ではなく、近くで見たときにハッとするような細部にこだわった物と言えるのです。
兜の立物である月とうさぎ耳形の由来は定かではありません。かつては月の満ち欠けを「消滅せず復活を繰り返す物」と考え、月を信仰したために「伊達政宗」(だてまさむね)など多くの武将が月の立物を兜に付けたと伝わっています。そのため左馬之助の兜の立物である繰半月(三日月の両側をくっ付けた形)も、月への信仰が由来ではないかと伝えられている形です。
ただし、これだけではうさぎに結び付きません。そこで登場するのが「今昔物語集」のうさぎの説話。「今昔物語集」は、インド・中国・日本の説話をもとに平安時代後期に書かれた物で、その中に「うさぎ」、「狐」、「猿」が登場する話です。
3匹は自身について「前世で善行をせず獣の姿になったのかもしれない、今生は身を捨てる覚悟で善行を行なおう」と修行に励みます。それを見た帝釈天が老人に化けて3匹のもとへ現れ、善行の機会を与えました。老人をもてなそうと狐と猿は様々な食べ物を用意しますが、うさぎだけは食べ物が見付けられず、自ら火の中に飛び込んで我が身を差し出したのです。
そこで帝釈天は、うさぎが行なった善行を後世に語り継がせてゆくために、月にうさぎの形を残しました。それにより月を見た人々は、うさぎの姿を自然と思い浮かべるようになったという説話です。この説話により、月とうさぎの形が施された兜は、仏教にまつわる様々な信仰心の表れとも伝えられています。
1582年(天正10年)6月2日、本能寺に明智光秀が攻め入り、手勢の少なかった織田信長は逃れることができず、寺に火を放って自刃したと伝えられています。このとき明智光秀と一緒に本能寺へ攻め込んだのが、左馬之助でした。
しかし、中国地方で毛利氏と戦っていた豊臣秀吉(このときは羽柴秀吉)は、織田信長の訃報を聞き付けて即座に京都へ引き返し、6月13日「山崎の戦い」で豊臣秀吉は明智光秀を破るのです。その知らせを聞いて左馬之助は守備をしていた安土城から出陣。明智軍を救援しようと坂本城へ向かいます。
坂本城は、織田信長が明智光秀に築城させた城で、延暦寺の見張り役として比叡山の山麓にありました。安土城を出て大津まで来たところで、豊臣方の将軍「堀秀政」(ほりひでまさ)と遭遇。正面突破を試みるも多くの手勢を失います。
湖岸はすべて豊臣軍が制圧。それでも左馬之助はあきらめず「打出浜」から「唐崎」まで、馬に乗ったまま琵琶湖を渡りきり坂本城に到着するのです。
しかし、結局は勝ち目なしと悟った左馬之助は、自ら妻と明智光秀の妻子を刺し殺し、坂本城に火を放って自決しました。この「湖水渡り」は伝説として今も語り継がれ、琵琶湖の打出浜湖岸には「明智左馬之助湖水渡」の石碑が建てられています。
織田信長の下で数々の戦績を上げ、豊臣秀吉と盟友であった「前田利家」(まえだとしいえ)は、人徳・知略に優れ加賀百万石を築いたことで知られている戦国武将。
その前田利家が所用した具足で代表的な「金小札白糸素懸縅胴丸具足」(きんこざねしろいとすがけおどしどうまるぐそく)の大きな特徴は、兜から胴、草摺まで金箔押が施され、全身が金色に輝いていることです。高さ68.5cmの「長烏帽子形兜」(ながえぼしなりかぶと)は金箔押の4枚の鉄板を白糸で縅した「日根野形?」(ひねのなりしころ)が付き、それを覆うように引き廻しが取り付けられています。胴は金箔押以外を除けばやや古風なスタイルで、動きやすさを重視した物です。
この具足は、1584年(天正12年)に加賀国(現在の石川県南部)「末森城」で、前田利家が「佐々成政」(さっさなりまさ)を撃破したときに身に付けていたとされています。戦のあとに功績のあった「奥村永福」(おくむらながとみ)に与えたと伝えられている物です。
戦国時代の武将の身長は155~160cmと言われている中、前田利家は使用した着衣の寸法から180cmを超える大男。さらに長烏帽子の兜を被ることで自分をより大きく見せ、敵方を威圧するには大きな効果があったと考えられるのです。
尾張国(現在の愛知県)の荒子城主「前田利春」(まえだとしはる:別名は利昌)の四男として生まれた前田利家は、弱冠12歳で織田信長に小姓として仕え、初陣で敵の首級を挙げるなど、織田信長に寵愛されるようになります。
若い頃の前田利家は派手な着物に身を包み、ケンカ早くて血気盛んだったため他人から「カブキ者」と呼ばれていました。ただでさえ長身なのに長槍を持ち歩いていたため、かなり目立つ存在であったようです。目立ったのは戦場でも同じで、織田家の家督争いの戦では顔を矢で射抜かれて傷を負いながらも、敵を討ち取る勇猛さを発揮。織田信長直属の精鋭部隊である「赤母衣衆」(あかほろしゅう)にも抜擢されます。
元服後は、前田又左衛門利家と名乗り、槍の名手だったことから「槍の又左」と呼ばれ、織田勢の中でも一目置かれるようになりました。前田利家に対する織田信長の評価も高く、浅井・朝倉氏と日本刀を交えた「金ヶ崎の戦い」では織田信長の警護役にあたった他、多くの戦で功績を挙げ、織田信長の勢力拡大を傍らで支えたのです。その功績によって1581年(天正9年)には、織田信長より能登国(現在の石川県北部)を与えられ、一国の大名にまで出世。豊臣秀吉が柴田勝家を討ち取った「賤ヶ岳の戦い」のあと、羽柴秀吉から加賀国2郡を加増され、居城を能登から加賀の「金沢城」に移し北陸の雄として君臨しました。
豊臣秀吉とは織田信長の家来同士であったことと、住居が近くだったことから親交が深く、豊臣秀吉が関白になったあとは「五大老」として政務を支え、豊臣秀吉の三男「豊臣秀頼」(とよとみひでより)の後見人にも選ばれる関係。ほとんどの武将が豊臣秀吉の命に楯突くことが許されなかった中で前田利家だけが唯一、豊臣秀吉に意見をすることができたため、他の武将から厚く信頼され慕われていました。
若い頃の前田利家は勇猛で派手好きでしたが、後年は、茶の湯や能を好み、漢籍などの学問にも熱心だったようです。前田利家は加賀に入城してから国内の文化や芸能、産業を奨励したとされています。
末森城での戦いで着用した金小札白糸素懸縅胴丸具足も、自分を目立たせることだけではなく、加賀の「金箔工芸技術」の高さを世に知らせる意味があったようです。そののち、前田利家の思いがさらに広がり、加賀国は独自の伝統文化を築き上げています。
安土桃山時代から江戸時代まで活躍した、筑後国(現在の福岡県)柳川藩主・立花宗茂(たちばなむねしげ)。
1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では西軍「豊臣側」に付き、改易(かいえき:領地没収)となるものの、敵の東軍大将「徳川家康」(とくがわいえやす)から実力を認められ、1620年(元和6年)、旧領へ大名として復帰した唯一の武将です。
その立花宗茂が、数々の戦で用いた武具が「鉄皺革包月輪文最上胴具足」(てつしぼかわつつみがちりんもんもがみどうぐそく)と「伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足」(いよざねぬいのべくりいろかわつつみほとけまるどうぐそく)。
前者には、胴の中央に朱色で大きな「輪貫の文」(わぬきのもん)が描かれているのが特徴です。大きな胴廻りは立花宗茂が大柄であったことを示し、地鉄も厚く草摺(くさずり)を含めて12kgと重量感のある仕様となっています。
後者は、とてもシンプルな形状で栗色の胴、朱色の草摺、銀色の佩楯と落ち着いた色彩が上品。兜は、どちらも後立に鳥毛、脇立に輪貫を付けており、輪貫は取り外して中央で折り畳むことができるようになっています。
そのため予備が携行でき、戦場で破損しても取り替えることができるのがメリット。激しい戦場で常に自身の存在を示そうとした工夫と言えます。
立花宗茂は、豊後国の戦国大名「大友家」の重臣である「高橋家」に生まれ、15歳のときに「戸次道雪」(べっきどうせつ:立花道雪または戸次鑑連)の養子となり、守護代として立花城を守っていました。翌年には苗字を「立花」とし、18歳で初陣。戸次道雪亡きあとは、九州統一を企てる「島津氏」の攻撃を受け、立花城は40,000の軍勢に包囲されてしまいます。
しかし立花宗茂は、主君「大友宗麟」(おおともそうりん)が要請した豊臣秀吉による「九州征伐」を信じ、豊臣軍勢の援軍が来るまで、島津軍に家老の「内田入道」(うちだにゅうどう)を人質に差し出し「城を明け渡すまで数日の猶予が欲しい」と時間を稼ぐ戦略に出たのです。これを聞き入れた島津軍は総攻撃を中止。この戦略は功を奏し、数日後、豊臣秀吉の軍勢が近づいていることを知った島津軍は一斉に立花城から撤退します。
それを見た立花宗茂はすぐに進軍して豊臣秀吉の島津攻めに加わり、豊臣秀吉の九州平定に尽力しました。その活躍で、豊臣秀吉は立花宗茂を「忠義も武勇も九州随一、九州の逸物」と賞賛。筑後国柳川に新しい領地を与えられ、大友家から離れて立花家として独立します。立花宗茂が弱冠20歳の頃のことでした。
豊臣秀吉の加護を受け、関ヶ原の戦いでは西軍についた立花宗茂でしたが、敗戦後は柳川に戻り、徳川側の「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)や「鍋島直茂」(なべしまなおしげ)、「加藤清正」(かとうきよまさ)らを迎え撃つことになります。劣勢を強いられましたが、敵方から「死なせるのは惜しい人物」と評され、黒田官兵衛や加藤清正の強い要請を受けて柳川城を開城。
その後は、改易され浪人として過ごしますが、彼の才を惜しんだ徳川2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)から「御側衆」(おそばしゅう)に迎え入れられ、1615年(元和元年)の「大坂夏の陣」では徳川秀忠の参謀役を務めました。その功績により旧領地であった柳川に戻ることが許され、大名として再び領国を支配するまでになったのです。かつての敵方が大名として徳川家に仕え、旧領を再び支配したのは異例なことで、あとにも先にも立花宗茂しかいません。
豊臣秀吉をはじめ、黒田官兵衛や加藤清正からも武将としての実力が認められていた、立花宗茂。剣法や弓術にも卓越した技術を持ち、武芸に秀でていました。また、武芸だけでなく和歌や狂言など文芸にも優れた才能を持っており、蹴鞠(けまり)や茶道、香道の知識・技術も発揮。好奇心が旺盛で柔軟な心を持った立花宗茂だからこそ、武具にも独自の工夫を施していました。
また、胴に描いた朱塗りの輪貫の文は、加藤清正がシンボルとしていた「蛇の目紋」と似ていることから、加藤清正との特別な親交を窺うことができます。
多くの才能に恵まれ、名立たる武将達に高い評価を得ていた立花宗茂は、戦での姿も際立った存在感を発揮していたに違いありません。